2024年5月24日に頼清徳総統が就任した。同日の就任演説は、あからさまに「台湾独立」を唱えず、平和と現状の維持を掲げつつ、台湾を威嚇する中国側に自制を求めるものであった。なお、就任演説は台湾の総統府に掲載されているほか、読売新聞が全文の日本語訳を掲載している。
確かに過去の総統就任演説を比較すると、今回の就任演説は、中国側に全く媚を売らない毅然としたものであった。内容だけを見れば、陳水扁総統の「一辺一国」発言(2002年)に近いものだったとも言える。こうした強気の背景には就任演説でも言及されているように、中国の威嚇行為のエスカレートやロシアによるウクライナ侵攻によって、日米欧など西側諸国が台湾に対する支援を強めているという事情があった。
とはいえ、一部の論評がいうように、中国は大規模な軍事演習をせずにいられないほど「激怒」した訳でない。中国が台湾に過度な反応を見せると、アメリカを刺激するリスクがある。アメリカが米ソ冷戦時代のような、対中「封じ込め」を撤回することはないだろう。それでも、中国は、これ以上アメリカとの緊張が高まる事態を避けつつ、なんとか台湾に馬英九政権のような親中派政権が復活することを願っていると考えられる。
そのため、中国の対台湾事務を扱う国務院台湾事務弁公室は、20日中に頼清徳総統の演説に、控えめな批判を行うにとどまった。その中でも、頼清徳総統を「台湾独立派」とよび、中台対話の基本条件である「92年コンセンサス」を受け入れていないと批判したものの、頼清徳総統の演説を「両国論」と強く非難していない。むしろ、「平和統一」が台湾民意の主流であり、中国側の希望でもあることが強調された(「国务院台办发言人就台湾地区领导人“5·20”讲话表态」)。
「両国論」(二国論)とは両岸関係の位置づけは国家と国家の関係、少なくとも特殊な国と国の関係にある」とした李登輝総統の発言(1999年)である。「両国論」の後、中国国民党と中国の対話は2005年まで、台湾と中国の窓口機関を通した事実上の公式対話は2008年まで凍結された。なお、中国国民党と中国は、2005年以前も水面下で接触していた。公式の立場の一貫性を重視する中国にとって、頼清徳総統の演説を「両国論」だと決めつけてしまうと、それなりに大きな反応を示す必要がある。だから、仮に思ったとしても、敢えて公に「両国論」と言わないのである。
また、「互いに隷属しない」という表現は、2021年10月の国慶節で蔡英文前総統も用いていた。馬英九政権も、例外ではない。馬英九政権で対中政策を担った、賴幸媛大陸委員会主任委員が「中華民國是主權獨立的國家」(中華民国は主権独立国家である)「兩岸互不隸屬」(両岸は互いに隷属しない)という文言を用いていた(「陸委會主委賴幸媛接見薄瑞光,強調中華民國是主權獨立的國家」2009年11月23日)。批判した本人である馬英九も、2003年7月に同様の発言をしたとも言われる(「馬英九自打臉!批「兩岸互不隸屬」違憲 他和國民黨這些人其實都喊過」Newtalk、2022年11月8日)。このように、頼清徳総統が演説で用いた文言は陳腐化したもので、中国を強く刺激する要素だとは言えない。
ところが、台湾の野党、中国国民党内の親中派は「頼清徳総統の演説には憲法上の問題がある」と批判し、これを「新両国論」と呼んだ。その代表例が馬英九基金会執行長つまり、馬英九元総統の側近である蕭旭岑が20日に行ったものである。彼は、下に引用した演説の赤字部分について批判した(「蕭旭岑:賴清德新兩國論 三大違憲」『聯合報』2024年5月21日)。
- 「無論是中華民國、中華民國臺灣,或是臺灣,皆是我們自己或國際友人稱呼我們國家的名稱,都一樣響亮。」
(中華民国、中華民国台湾、あるいは台湾のいずれであれ、皆、私達自身あるいは国際社会の友人が私達の国家の名称と呼ぶもので、いずれも同じように素晴らしい響きである。
⇒批判:台湾は国家の名称ではない。憲法改正なしに、国家の名称は変更できない。 - 「根據中華民國憲法,中華民國主權屬於國民全體;有中華民國國籍者,為中華民國國民;由此可見,中華民國與中華人民共和國互不隸屬。」
(中華民国憲法によれば、中華民国の主権は国民全体に帰属するものである。中華民国の国籍を持つ者が中華民国国民である。そのことから、中華民国と中華人民共和国は、互いに隷属していないといえる。)
⇒批判(1):我が国(中華民国)は、中華人民共和国を承認しておらず、「大陸地区」と呼ぶべきである。
⇒批判(2)中華民国憲法では、「大陸地区」も中華民国の領土の範囲内だと規定している。
そして、21日には、馬英九本人も同様の批判を行い、「頼清徳の『新両国論』は、すぐにでも両岸関係(中台関係のこと)を予測できないリスクやチャレンジに巻き込むだろう」と発言した(「賴清德「新兩國論」 馬英九:讓兩岸關係面臨不可預測的風險」『聯合報』2024年5月21日)。
おそらく、中国側は、戸惑ったはずである。しかし、台湾の親中派を代表する、馬英九らに「反発するよう」を誘われれば、中国としては断れない。もし、この誘いを断れば、「弱腰」を見せたとアメリカや台湾の本土派(民進党などのこと)に思われるからである。
そのため、中国側の対台湾事務を扱う国務院台湾事務弁公室は21日遅くになって、頼清徳総統の就任演説を「両国論」だと認め、非難した(「国台办:台湾地区领导人“5·20”讲话是彻头彻尾的“台独自白”」)。23日朝には、中国国防部も台湾周辺での軍事演習の実施(23~24日)を急遽発表した(「东部战区位台岛周边开展“联合利剑—2024A”演习」)。おそらくは、21日晩から22日(あるいは23日未明)の間にかけて、中国軍の将校らは限られた時間であっても、台湾側や周辺に展開するアメリカ軍を過度に刺激せずに済むよう悩みながら、演習の計画を練ったのではないか。
この演習について特筆すべき点は、中国側が軍事演習を派手に喧伝しながら、実弾演習を見送ったことである。(中国側の)公式では、陸・海・空・ロケット軍と全ての軍種が動員されたことになっている。その演習の地理的な範囲も2022年にアメリカ議会下院のペロシ議会議長による台湾訪問時のように台湾を包囲する図が示された(「东部战区此次位台岛周边演习有何特点?专家深度解析」)。しかしながら、今回は弾道ミサイルも発射演習を実施していない。また、台湾海峡の中間線を演習範囲から外した。2022年時より台湾本島に近づいたようにも見えるが、実際にどの程度の演習が行われたのかは疑問がある。
結局、台湾では、本土派つまり民進党よりのメディアや論客は、やはり今回の演習を単なる「威嚇」と見る傾向が強かった。最近は、本来保守派であるはずの外省籍の元軍人が、中国の威嚇に呼応する親中派を「漢奸」「台奸」(裏切り者)とよび、その言説を軍事面から反駁することも多くなった。
それでも、親中派のメディアや論客は「頼清徳のような独立路線は、中国を刺激する。危険だ」と非難する形で、中国の軍事演習を政治利用した。それならば、やはり中国軍は、形式だけも「演習を実施した」意義を見いだせるだろう。実際の効果が薄くとも演習(威嚇)は「武力統一」に比べて、費用や損害の少ない「現実的」な統一工作だからである。
ただし、今回の演習で実弾の使用が見送られたとはいえ、今後の展開については注意が必要だろう。というのは、中国が何れかの時点で、キューバ危機のような海上封鎖を台湾に仕掛ける可能性がある。その場合は偶発的な軍事衝突を避けるために、実弾演習を控えるべきだからである。